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カザフスタンのEt,
キルギスのNaryn

ベシュバルマクと呼ばないで

Text: 八幡亜樹(現代美術家・手食web主宰)

ベシュバルマクという呼称について

現在では、etやNarynは「ベシュバルマク(бешбармақ)」または「ベスバルマク(бесбармақ)」とレストランなどでは呼ばれており、特にベシュバルマクのほうが一般的である。ソ連に併合される前の時代には、ベシュバルマクという呼び名はなく、カザフスタンでは「et(肉)」とだけ呼ばれてきたとされる。「ベシュバルマク(5本の指)」という呼称は、ロシアによる植民地時代に、ロシア人が手食を行うカザフスタンの遊牧民を見下げて付けた名前であるという歴史家の見解もある。カザフスタンの歴史文献「ҚАЗАҚТЫҢ ЭТНОГРАФИЯЛЫҚ КАТЕГОРИЯЛАР, ҰҒЫМДАР МЕН АТАУЛАРЫНЫҢ ДƏСТҮРЛI ЖҮЙЕСI, 2-том」(p222参照)にははっきりと、“etを「ベシュバルマク(бешбармақ)」と呼ぶことは誤りである”と記されている(キルギスに関する文献は未検証)。また、語法としても「バルマク」は指のことをさす“単数形”の言葉のようで、カザフスタン語で正確に「5本の指(複数形)」という意味になっていない(カザフ語として間違いである)ということも、カザフ語を母語としないロシア人が命名した名前であることを裏付けていると指摘する人もいる。カザフスタン国立大学の文化人類学者や食文化研究者によれば、カザフスタンの歴史的な文献に「ベシュバルマク」という呼称が出てくることは一切なく、全ては「et」と記載されており、歴史研究者たちは「ベシュバルマク」という呼び名を嫌う傾向すらあると聞いた。伝統を重んじる家庭であればあるほど、ベシュバルマクと言わずetといい、ベシュバルマクを食べましょうというのではなく「肉etを食べましょう」というのだそうだ。

アルマティのレストラン.英語でBeshbarmak with horse meatと書かれたレストランメニュー.
アルマティの同じレストランのロシア語のメニュー.Бешбармак из конина(Beshbarmak of horse meat)と書かれている.

キルギスでも同様で、ベシュバルマクという呼び名が入ってくる前はNaryn(нарын:ナルン:肉と細い麺を合わせた料理)と呼ばれていたという話がある。しかし、厳密には「Naryn」と「et」もそれぞれ別の料理とされていたかもしれない説もある。麺の形状はかなり異なるが、どちらも構成要素が麺と馬肉であり、祝祭などで調理される伝統的な文脈をもつことから、徐々に分かち難く混ざり合っていき、区別がなくなった可能性がある。

“ベシュバルマクNo.1”を店名に冠するキルギスのレストランのメニュー.

ベシュバルマクという名は上記のように、飲食店で流通している名前であるので、観光ガイドブックや日本で紹介される際の名前はベシュバルマクとなっていることが殆どだ。本ウェブサイトでは、カザフスタンの人々の抱えている、この名にまつわるロシア帝国支配や旧ソ連時代への複雑な背景と心情に配慮して、できる限りetと記述していきたいと思う。

※ただし、キルギスでベシュバルマクという呼び名を嫌う人には不思議と遭遇しなかった。カザフスタンとキルギスの間には認識の違いがあるようだが、そのリサーチには及ぶことができなかった。

EtとNarynの麺の違い

前述のようにカザフスタンのetとキルギスのNarynは麺の形状が全く異なるが、現代ではどちらも「ベシュバルマク」と括られてしまっているわけである。

カザフスタンのetは、上半身を覆うほどに大きな風呂敷状の平たい麺を4当分して湯掻いた巨大な一枚の麺を、大きなお皿から直接指で掬いとって食べるのが伝統的なスタイルである。

茹でる前のetの麺生地.4当分にしただけの大きさでそのまま茹で上げる.

昨今では、スーパーでインスタントの乾燥したet用乾麺も売られており、それは5~10cm四方の平たい乾燥麺にカットされたものが袋詰めされている。

カザフスタンのet用乾麺(商品名にはetではなくベシュバルマクと書かれている)

一方で、キルギスのNarynは細い紐状の麺である。しかし、麺の形状には短く切れたようなものからインスタントラーメンのようなちぢれ麺、さらにパスタのようなまっすぐな麺までさまざまなものがあった。今回訪ねた、とある家庭のパーティーでは市販のストレートな乾麺を使用していたが、そのパッケージにベシュバルマクやNarynの記述はなく、パッケージの料理写真もNarynとは異なるもののように思えた。一度に大量に作ることがほとんどであるため、より簡単に調理できる麺を各家庭の好みで選択しているように思われた。

キルギスの家庭でNaryn用に使用していた乾麺.パッケージにベシュバルマクという記載はなく、パスタやラグマン*用の麺を使用している可能性もある.(*中央アジアで広く食べられている手延べ麺)
馬肉スープに乾麺が投入されたところ

EtとNarynの手食についての考え方

カザフスタン・キルギスは主にイスラム教国家だが、宗教的な理由でこれらを手食しているという見解には遭遇しなかった。あくまでも、遊牧生活時代からの慣習としての手食であり、左右の手の禁忌なども見受けられなかった。

手食は一つの大きなお皿から直接行われる場合もあれば、取り分けられた小皿から手食する場合もある。食卓にフィンガーボールの用意はなく、手を洗う必要があるときは洗面台に向かう。一つの皿から共食するが、現代では、フォークを使う人、手食する人が混在している家庭やシチュエーションも多い。フォークで食べる人は、その方が上品であるという認識の人であり、特に若い世代にその傾向が認められる。

etを手食する光景

現代の食卓はテーブルと椅子に着座して食べることがほとんどで、都市部では床での食事は滅多に見かけない。よってetとNarynも現在はテーブルに着座した状態での手食であった。例外的に、地方の村で、故人の一周忌を偲ぶ会に参加した際には、床座りの状態で人々が車座になり、Narynが供されたことがあった。

一周忌の会場で供されたNaryn

今ではユルタ(モンゴルでいうゲル)を使ったリアルな遊牧生活を通年で行っている家庭はなく、季節性にユルタを用いて羊など家畜の世話をする家庭はある。取材期間中にユルタでのetやNarynを食する風景の取材は行えなかった。

手食を頑なに守っている高齢世代は、それが家族やコミュニティの団結など、精神的な繋がりに関係すると考えている。先祖へのリスペクトを示す食べ方でもあり、継承されるべきという思いを持っている人も多い。また、手で食べた方が美味しいというシンプルで主観的理由もある。

Narynを手食する光景

余談だが、筆者はetを手食した翌日に、指のひどいささくれが治癒していた。Etは馬肉を使用するが、etには馬の油が豊潤に含まれており、手で食べると指が油にまみれギトギトになる。馬油は皮膚を保護する効果が非常に高いと考えられており、日本でも馬油を使用したスキンケア製品がある。おそらく遊牧生活時代、砂漠はひどい乾燥環境で、家畜の世話など、手が荒れる場面も多くあっただろう。そういったときに、etを手食することは手指の保護という民間療法的な意味もあったのではないかと、筆者は勝手に想像している。

また、歴史文献「ҚАЗАҚТЫҢ ЭТНОГРАФИЯЛЫҚ КАТЕГОРИЯЛАР, ҰҒЫМДАР МЕН АТАУЛАРЫНЫҢ ДƏСТҮРЛI ЖҮЙЕСI, 2-том」(p222)に記載されていたことだが、冬の時期に風邪を引いた者には大量の馬肉スープを飲ませて治療したことが書かれている。etはこのように、内側からの民間療法でもあったのだろう。


Narynの手食に関する参考動画

一昔前の時代にNarynがどのように食べられていたのか。キルギスの1920年〜1950年代頃を描いたロシア映画がある。
The first teacher (Первый учитель)』(Andrey Koncharovskiy, 15 August 1966, Russia)である。

https://rezka.ag/films/drama/45035-pervyy-uchitel-1965.html
このURLの37分〜39分の間に紐状の麺に肉が絡んだ料理を手食する場面がある。


etの取材を通して筆者が制作した美術作品

八幡亜樹website『ベシュバルマクと呼ばないで//2022』(2023)作品ページ 
京都市京セラ美術館『ベシュバルマクと呼ばないで//2022』(2023)展示カタログ 

『ベシュバルマクと呼ばないで//2022』予告編

プロフィール

八幡 亜樹(やはた あき)

現代美術家。手食web主宰。
東京藝術大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程修了。同専攻博士後期課程中退後、滋賀医科大学医学部医学科卒業。「(地理的/社会的/心身的な)辺境」の概念を追求し、フィールド調査や取材に基づく領域横断的な作品制作を行なう現代美術家。芸術により人間の生命力を伸張する方法を思索・探究している。
2023年に、ベシュバルマクのリサーチを元にした美術作品『ベシュバルマクと呼ばないで//2022』を京都市京セラ美術館で個展形式で発表した。

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