
フフの手食に関する記録
ガーナ共和国とトーゴ共和国の滞在を通して
はじめに
筆者は2023年3月に初めてトーゴ共和国を訪れ、2025年2月にはガーナ共和国とトーゴ共和国を再訪した(図1参照)。この旅で私は、ガーナのクマシ、トーゴのロメ、パリメそしてアソメにおいてフフ(Fufu)を手で食べるという経験をした。この記録では、その体験をもとに、フフに関する手食文化について説明していく。

本稿は、旅の中での私自身の食事体験、現地の人々とのインタビュー、そして市場で出会ったレシピ本の内容を組み合わせて構成している。これらのデータはすべて私と同行した友人の2人で集めた情報であり、これが完全に正確かつ客観的なものかという課題がある。例えば、私たちは出会った人全員が右手でフフを食べているのを目にした。しかし、ガーナとトーゴでは何%の人が右手でフフを食べるのかという統計的情報は明らかになっていないため、「フフは右手で食べるという文化がガーナとトーゴに普遍的に存在する」と断定することはできない。
そのため、この文章では「私たち」と「私」がどのような立場から何を観察したのか、私がガーナやトーゴの友人とどのような関係性の中で交流したのかを丁寧に記述することで、データの厳密性(Rigor)を高めることを目指す。この方法を用いても「客観性に欠ける」という批判を完全に避けることはできないが、読者がデータの信用性を自ら評価することが可能になっている。
フフについて
フフは、西アフリカで広く食されている主食の一つであり、ヤムイモやキャッサバなどのでんぷん質の根菜を原料とする。作る過程では、材料を杵でつきながらお湯を加え、粘り気が出るまで練り上げる(図2参照)。完成したフフは、白玉団子のような弾力がありながら、マッシュポテトに似た味わいが広がる。

フフには必ずスープが添えられる(図3)。スープには青唐辛子をはじめとする野菜や香辛料が入り、ヤギ、鶏、ほろほろ鳥、白身魚などの動物性たんぱくとともにじっくり煮込まれる。辛味と旨味が凝縮されたスープをフフに絡めながら食べるのが一般的である。

なぜフフのみに焦点を当てるのか?
西アフリカには、フフ以外にもアクメ(Akume)やバンク(Banku)など、さまざまな主食が存在する。しかし、今回の旅では、フフ以外の手で食べるローカルフードを試すことができなかった。その理由として、1) ガーナとトーゴの滞在期間が約2週間と短かったこと、2) 現地の友人たちと食事を共にした際、もてなしの意味を込めてフフを振る舞ってくれたことが挙げられる。ガーナには一定数の日本人が住んでいるが、日本人観光客を見かけることは稀であり、トーゴの在住日本人は数えるほどである。その一方で、TOYOTA、NISSAN、HONDA、SUZUKI、YAMAHAなど、日本という言葉から、自動車や家電メーカーを想起する人々が多い。そのため、「自動車や家電でしか日本人を知ることがないため、直接話す機会は貴重である」という認識があり、ハレの日の定番料理であるフフを食べる機会が多かったと考えられる。
クマシ(ガーナ共和国)での経験
クマシはガーナ第二の都市であり、かつてアシャンティ王国の中心地であった文化都市である。筆者は、高級ホテルに隣接した観光客向けのレストランと、大学内の地域向け食堂で1回ずつフフを食べた(図4、図5参照)。観光客向けのレストランには私と同行した友人の2名のみで訪問したが、地域食堂ではクマシ在住の友人Felixと共に食卓を囲んだ。


Felixは私がオンラインで通学するランカスター大学(英国)の博士課程の同級生であり、産科医として地域の中規模病院の院長を務め、地域の教会で牧師も務めている。彼は30代だが、その年齢で牧師を務めるのは異例であると言っていた。彼と初めて話したのはガーナに行く1年前で、偶然彼が来日する機会があり、私は彼を秋葉原に連れて行ったり(救急車と爆音スピーカーを一緒に探した)、宿を紹介したり、京都の隠れ家カフェ&バーに招いたりした。彼が帰国する際に、「次はガーナに行くよ!」と言ってから半年後、私たちは初めてクマシの地を踏むこととなった。
Felixが修士課程を修了した大学(クワメ・エンクルマ科学技術大学)内にある地域向け食堂で、私たちは500円でフフとシチューを頼んだ。地元でのフフの平均的な値段は不明だが、レストランのウェイトレスの月給はフルタイムで約10,000円強だと言われている。そう考えると、この地域食堂で私たちが食べたフフは比較的高いと考えられる。このレストランの選択は、遠方からの来客をもてなしたいという彼の配慮があったのかもしれない。
フフを食べる際、基本的な作法は手を使うこと以外は洋食と変わらない。椅子に座り、テーブルの中心に大皿が置かれ、その中にフフとシチューが入っている。観光客向けのレストランでは追加でフィンガーボウルが用意され、中にはお湯が入っていた。一方、地域食堂では食事の前後に手を洗うための水と石けん、汚れた水を捨てる容器が各テーブルに備えられていた。この容器を使う人もいれば、手を洗った水を地面に落とす人もいた。
私たちが食べたフフの中で、最初からフフにシチューがかかっていたのはクマシのみである。そのため、素早く食べないとフフが崩れ、独特の粘り気がなくなってしまう。食事前に歓談していたカップルを複数見かけたが、周囲の人々は黙々と食事に集中しており、スマートフォンを操作したり、会話をしながら食べる様子はほとんど見られなかった。食べる際は右手のみを使い、親指、人差し指、中指でフフをちぎり、スープに絡めて口に運ぶ。Felixによると、右手は物を渡したり受け取ったりするためのものであり、食事でもその慣習が守られているという。また、周囲の人々は指を舐めることなく食事を終えていたが、家庭では指を舐めることも許容されるとのことであった。
手食の歴史的背景については明確な資料が乏しく、クマシの考古学博物館にはスプーンらしきものが展示されていなかった。というよりも、植民地支配時代に様々な歴史的なものが破壊・略奪されてきたため、歴史を確認しようがなかった。そのため、軍事博物館を除いて、独立後に出てきた遺跡の展示と、独立後のガーナに関する展示が博物館の大半を占めており、植民地支配以前の歴史についてはほとんど展示されていなかった(展示ができなくなったというほうが正確かもしれない)。
「アジア系の方々がフフを手で食べるのは珍しい」という認識が、現地の方々にあるように思えたことが何回かあった。観光客向けのレストランではフォークやスプーンが提供されたことである。しかし、このレストランで地元の方々がフフを頼んだ際、カトラリーは出てこなかったため、「アジア系の方々は手で食べるのは苦労するだろう」というウェイトレスの配慮があったのかもしれない。また、私たちがフフを食べたことを話すと、どこでも驚かれた。WhatsAppのストーリー機能でフフの写真を挙げると、3人から「Really?」と返事が来た。確かに、地域の食堂でヨーロッパ系やアジア系の人を見ることはなく、カフェやショッピングモールのハンバーガーチェーン等で彼らは食事をしていた。「アジアから来た方々がフフを食べるなんて驚きだ」と、現地の方々に思われていたのかもしれない。
ロメとアソメ(トーゴ共和国)での経験
ロメはトーゴ共和国の首都であり、大きな港やハブ空港を有し、西アフリカ物流の中心地となっている。一方、アソメはロメから北に約30kmの距離にある農村である。筆者はロメでは2023年、アソメでは2025年に、それぞれ住民向けの食堂でフフを食べた。
2023年のトーゴ訪問は、日本人4人のチームで行った。ツアーガイドのPascalが布市場を案内している途中で食堂に立ち寄り、そこでフフを食べた。また、パリメによった際も牧師を務めるMamadouと一緒に教会でフフを食べる機会があった。2025年には、Pascalと運転手とともにアソメを訪問し、制作活動をしているアーティストAtisso Gohaに会った。彼は2024年11~12月にINTA-NET KYOTO(https://www.instagram.com/kyoto.intanet/)で展示を行っており、その際に展示した彫刻を返却することがアソメ訪問の目的だった。
トーゴではフフとスープは別々に提供される(図1、図2、図6参照)。食べるときは、フフをちぎり、スープに適量をつけて口に運ぶ。アソメの食堂では、指についたスープを舐め、右手で皿を持ってスープを飲み干す人の姿が見られた。これは地域ごとの食文化の違いというより、食堂の雰囲気がカジュアルであることによるものかもしれない。特に、アソメのスープは親鶏の出汁が非常に効いており、指まで舐めたくなる気持ちはよくわかる。なお、食堂では個別の皿でフフとスープが提供されていたが、家庭では大皿にフフを盛り、皆で取り分けるのが一般的とのことだった。

フフ自体の味に大きな違いはなかったが、トーゴのスープはより辛かった。特にアソメの食堂では青唐辛子の量が多く、筆者は2日ほど唇がヒリヒリしていた。しかし、他の人々は汗をかきながらも冷水に頼らずフフを平らげていた。辛さへの耐性があるのか、遺伝的要因なのか、それともただ我慢強いのか、そのメカニズムは明らかではない。
ロメ・アソメにおける手食の歴史的背景についての情報は得られなかった。博物館は休業中であり、トーゴの土着文化に関する本を扱う書店もなかったため、情報を得る手段がなかった。Pascalによれば、手食の習慣は学校ではなく家庭やコミュニティの中で学ぶものであり、子どもたちは幼少期から大人の手食の様子を見て自然に作法を身につけていくとのことだった。
なぜ人々はフフを手で食べるのか?自身の経験に基づく考察
1.安全のための手食
第一に、食べ物の温度を把握するために、手食の習慣が根付いた可能性がある。トーゴでは伝統的にかまどを使って調理を行うが、その火力調整は容易ではない(図7参照)。薪をくべて火の強さを調整するものの、細かな調整が難しく、結果として強火で長時間加熱されることが多い。そのため、食堂や家庭で提供されるスープは非常に熱い状態のままであることが多い。

このような背景には、彼らの生活環境が関係している可能性がある。例えば、アソメの小学校では、午前に通う子どもと午後に通う子どもに分かれているため、昼の時間帯であっても、子どもが家の周囲にいることが多い。実際、筆者が訪れた食堂では、調理人の息子と思しき子どもが外で遊び回っている姿を見かけた。トーゴの2022年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の数の平均)は4.20人であり、子どもの割合は日本よりも遥かに高い。したがって、調理を担当する大人が子どもの世話をしながら作業を進めるうちに、鍋が強火にかかりっぱなしになることは避けられない状況なのかもしれない。また、調理の際に「熱い=安全」という認識が根付いている可能性もある。これは加熱不足が食中毒などの感染症をもたらすという衛生知識が、調理人や顧客にしみついているからかもしれない。
こうした環境下でカトラリーを使用して食事をすると、食べ物の熱さを最初に口で感じることになり、やけどのリスクが高まる。唇の皮膚の厚さは約0.6mmであり、他の部位に比べて角質層が薄いため、熱いものに直接触れるとダメージを受けやすい。口の中の粘膜も同様に繊細であり、温度を確認せずに熱いフフやスープを直接口に運ぶことは、大きなリスクとなる。
一方で、手で食べることで、指先を使って食べ物の温度を確かめながら口に運ぶことができる。指先の皮膚は唇や口内に比べて厚いため、熱さを判断するのに適している。また、フフが熱い場合も手でこねることで熱を逃がすことができるため、適温の食事を口に運ぶことができる。過去には氷や冷水、軟膏といったやけどの処置に必要なものが容易に手に入らなかったことを考えると、手食は食事によるやけどのリスクを最小限に抑えるための合理的な方法だったと考えられる。つまり、手食は単なる文化的な習慣ではなく、熱い料理を安全に食べるための工夫の一つとして発展してきた可能性がある。
2.食べきるための手食
手食の習慣が根付いた背景には、肉の硬さが大きく関係している可能性がある。トーゴにおける食肉の供給は、日本や欧米のように柔らかい若い家畜を中心としたものではなく、主に老いた鳥やヤギ(=卵や乳を出しきった動物)が屠殺されることが一般的である。そのため、現地で提供される肉の多くは繊維が強く、非常に歯ごたえがある。このような硬い肉が塩分濃度の高いスープの中で長時間強火で煮込まれるため、肉からさらに水分が抜け、ナイフやフォークで切ることが困難になっている。
また、トーゴの食文化ではフフとスープの組み合わせが主流であり、これにより食卓では平皿ではなく深めの器が用いられることが多い。平皿が普及していないことは、フォークやナイフを使う習慣が根付かなかった要因の一つとも考えられる。フォークとナイフは、食材を押さえて切るために平らな面が必要であるが、トーゴの食文化ではその必要性がそもそも低かったと推測される。さらに、スープの中の肉は骨付きであり、野菜もドロドロに溶けている。そのため、スプーンですくい取るものが少なく、手で取り出して食べる方が自然な流れだったのかもしれない。
さらに、農村部では食事用のナイフを手に入れるのが容易ではないという事情も関係していそうである。筆者がロメの市場を訪れた際、食事用のナイフがほとんど見当たらないことに気がついた。市場の流通が限られているからこそ、ナイフが普及しなかったのではないかと考えられる(ただし、筆者が市場で販売されているナイフを見落としている可能性もある)。
このような状況下では、手が汚れるリスクはあるものの、肉を手で持ち、歯で噛み千切ることが合理的であると判断されているのかもしれない。つまり、手食は単に「伝統的な食べ方」であるというだけでなく、現地の食材や調理法に適応した、実用的で合理的な食事スタイルとして根付いている可能性があるのだ。
植民地的視点から手食を再考する
ガーナ・クマシを案内してくれたFelixと、手食と疾病の関係について話す機会があった。彼の臨床経験によれば、適切な手洗いが行われていない状況では、手食が感染症拡散のリスク要因となりうると認識していた。しかし同時に、手食は地域文化に深く根付いた習慣であり、これを一方的に変えようとするよりも、正しい手洗い習慣の普及を促進する方がはるかに現実的なアプローチだと述べていた。
特定の食べ物を手で直接食べることが、「不衛生」「ばっちい」「礼儀がなってない」「遅れている」と認識される場合がある。だが、現地の食材特性や調理法を総合的に考慮すると、手食がフォークやナイフよりも理にかなった選択となる場合が存在する。この洞察から導かれるのは、特定の文化を「不潔」や「未発達」と安易に位置づけることの危険性であり、むしろ異文化の背景にある合理性を多角的視点から理解する姿勢の重要性である。食習慣にはそれぞれの地域の気候、歴史、社会構造、台所の機能などが複雑に絡み合っており、その文脈を無視して一方的な価値判断を下すことはできないし、することは許されない。
このように、文化的食習慣を考察する際には、単なる伝統の維持ではなく、それがどのような歴史的・社会的背景のもとで形成され、どのような合理性を持っているのかという視点で問い続けることが不可欠である。そもそも、歴史が破壊された国々における「伝統」が何を意味するのか?という点から問い直す必要がある。そして、これらの問に対する反応の積み重ねこそが、公衆衛生の向上と文化の尊重という、一見対立しそうな二つの目標を両立させるための鍵となるのかもしれない。
おわりに:なぜ合理的に手食を考察したのか?
本考察に対して、「手食の合理性はガーナやトーゴに特有のものではなく、他の地域にも当てはまるのではないか」という批判が予想される。確かに、辛くて熱い料理を食べるインドや東南アジアの人々にも共通する側面は多い。ガーナやトーゴの独自の歴史や文化から手食を紐解くことはできないのか。この地域特有の面白い話はないのか。そんなことを考えながら、ガーナとトーゴで様々なアンテナを張っていた。
しかし、現地で暮らすうちに、植民地支配によって地域の歴史そのものが破壊され、文化的記憶が喪失していることを何度も痛感した。今回訪問したガーナとトーゴの南部は、キリスト教徒が多く、伝統的な信仰は一部観光地で残っている。ガーナ最大の大学であるアクラ大学の書店の歴史学コーナーを訪れると、アシャンティ王国の歴史を除き、独立前の記録が書かれた書籍はほとんど見当たらない。トーゴに至っては「(植民地支配中やその前の土着文化に関する)本が売っている場所はない」と言われてしまった。
こうした経験の積み重ねの中で、「なぜ手食が始まったのか」という問い自体が、西洋的な歴史観―すなわち、「特定の事象は歴史的な構築物であり、文献などによってそれを知ることができる」という前提に基づいていることに気づかされた。しかし、その前提自体が西洋諸国によって破壊された状況において、果たしてこの方法で歴史を考察することは適切なのだろうか。
もう一つ、象徴的な例を挙げる。トーゴの古物商で気になるお面を見つけ、店員に由来を尋ねたところ、「昔から店にあった」「X国から来たと思う」「儀式で使われていたと思う」といった曖昧な答えしか得られなかった。そのお面の歴史は、伝承も記録もされていないのだ。我々は物事を理解するために文脈を求めがちだが、歴史が断絶された状態にあるものを、歴史の枠組みの中で理解しようとすることに、どれほどの意味があるのだろうか。そして、歴史を破壊した側が、その歴史を求めるというこの皮肉な構図を、私はやすやすと受け入れるべきなのだろうか。【おわりに】以前は帰国後すぐに書き上げたのだが、その後これを書ききるのに1か月を要している。このことをずっと考え続けていたためである。
こうした背景を踏まえ、私は「ガーナやトーゴ特有の歴史から手食を論じる」よりも、「私が直接見聞きした情報から手食を論じる」ことに重点を置いた。文献的な裏付けや確立された歴史的背景へのアクセスが困難である以上、現地の人々がどのような環境でどのように手食をしているかを観察し、そのデータを統合する形で考察を行った。この方法論で手食を記述すると決めた背景には、身体所作の継承性は、例えテキストに残らなくても確かに存在すると感じる機会が多々あったからだ。例えば、キリスト教が信仰の中心になったとしても、踊りの動作までは西洋風になっていない。こうした自分のレンズを通して得た情報を核に知識を生成するというスタンスは、文字データや記録を重視する西洋的な学問体系を超えた方法であるかもしれない。私は質的研究(≒インタビュー調査を活用した研究)を公衆衛生の文脈で実践しているが、公衆衛生学における質的研究の重要性とこのあたりは類似している。
しかし冒頭の通り、このやり方にも限界がある。私が見た現実を、読者がガーナに行ったところで全く同じように体験することはできない。映像記録も可能だが、カメラの前では特殊なふるまいが現れてしまう可能性がある(もちろん同意のない隠し撮りは倫理的観点から許容されるものではない)。手食という行為を説明・表現・記録していくため、未だ残る幾多の限界をどう乗り越えていくべきなのだろうか。私は近いうちに、この手食アーカイブの更新に挑戦したいと思っている。
プロフィール
三宮 柾名(さんのみや まさな)
看護師。NPO法人BARD理事。ランカスター大学健康科学研究科博士課程に在籍しつつ、東京藝術大学等で研究員を勤める。また、神田外語大学グローバルリベラルアーツ学部非常勤講師として、ダイバーシティ教育に従事する。公衆衛生学、ジェンダー論、ケア・機能性と交差する芸術実践等を専門とする。
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